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小林繁さんの死去に想う

小林繁2010年1月17日、突然の訃報が飛び込んできた。振り返ると1979年1月31日、いわゆる「空白の一日」騒動から早や31年になる。当時は巨人の横暴な江川と小林のトレードに世間は騒いだものだ。国会にも取り上げられ、テレビではニュースの半分がこの問題で占められるほどでした。その頃、小生は昼は易学に携わり、夜は飲食店を営んでいた。そんな折、数名のお客の中に小林にそっくりな人物が来店してきた。毎日のようにテレビで観ているので、「おぉ小林そっくり」と声をかけると小林ですと一礼をされた。周りのお客から小林繁やないかとつっこまれ、今聞いて分っているとぼけた。テレビの会見では「野球が好きだから阪神に行く」、「同情はされたくない」と言っていたが、本音のところはどうだろうと会話のなかでいろいろ聞いてみた。しかし、潔く男らしい返答しか返ってこなかった。ギターの弾き語りで唄ったが、これが実にうまい。端正なマスクに、偉ぶるところもない。好感をもたない者はいないだろうと思ったものだ。それから2,3年後だと記憶するが、ある業務用厨房機器を販売するお客から、納めた器具の代金を支払ってくれないという話を聞いた。にわかに信じがたい話である。移籍1年目の79年は自己最多となる22勝(9敗)を挙げ、初の最多勝利投手、2度目の沢村賞を獲得。83年現役引退を表明するまでは毎年2けた勝利を続けている。また、79年には「亜紀子」で歌手デビュー発売1ヶ月で10万枚突破という快挙。CMにも出ていた記憶がある。そんな小林氏からすれば数百万円は小額のはず、不払いするはずがないと思っていた。しかし、共同経営していた飲食店の会社が倒産した際、小林氏の判子が勝手に押された手形が乱発され、2003年9月に最大十億円の借金を抱え、東京地裁に自己破産を申請していたとのこと。栄光と転落どこで人生が狂ってしまったのでしょうか。
運勢的に鑑定していきましょう。


小林繁命式1番目と5番目の五行が偏る比劫-印星タイプです。自分自身の五行とそれに力を与える五行が強い命式です。守りの資質は少なく、攻撃している場面で力を発揮するタイプと言えるのです。

 

 

小林繁行運

季節の節目で亡くなりました。四季の変わり目を接木運と言って人生のターニングポイントに成りうる事柄が起る時期といえ、体調管理にも気をつけたいときなのです。大運が急上昇し、これからというときに残念というしかありません。若い人は知らない、遠い昔の出来事、そこからはじまる人生模様、見方を変えれば死して再度、輝いたと言えるかも知れない。




グラフをみても判るように1979年は非常によい運気でした。1983年13勝を挙げながら突然の引退、表向きは肩の故障とされているが、現役時代から大阪新地で北海道料理店、高級クラブを経営したがうまくいかず、よくない筋から借金をして、とりたてが阪神球団までにこられたのが本当の理由だといわれる。家庭生活においても大丸時代の同僚A子さんと結婚していたが、大物有名歌手Fとの親密な関係が囁かれたり、夜遊び繰
                                                り返す毎小林繁2002日、1982年に離婚。引退後はスポーツキャスターや役者として活躍、億単位を稼いだとという、しかし、有名歌手Nとの密会を報じられるなど相変わらぬプレイボーイぶりを発揮していた。1992年、12歳年下の社長令嬢B子さんと再婚する。1995年、参議院選挙に立候補するがあえなく落選。得票率が1%未満だったため、供託金の募集はもちろん広告費用も自己負担となった。選挙のため番組やCMを降板していた小林氏の懐事情を圧迫したという。97年~2001年には近鉄(現オリックス)で投手コーチを務めたが近鉄のユニホームを脱ぐことになったのも阪神を辞めたときと同じ理由だったと報道されている。
どん底まで墜ちた小林氏に運が巡ってきたのは2007年酒造メーカーのCMであの江川氏との共演だった。2008年は盟友梨田昌孝の誘いで日本ハムの二軍コーチに就任する。私生活でもB子さんと離別しており、喪主を務めた30歳近く年下の静子さんと暮らしていた。今季から一軍投手コーチへの昇格が決まり、再び光がさして来た矢先と言える。酒に弱い体質なのに無理やりあおっていた日々が祟り、肝臓を壊していたという、煙草の量も一向に減っていなかったらしい。最近は節酒をしつつ、肝臓の数値を下げる薬も服用していた。ただ、その薬が心臓に負担になる副作用があること、また煙草が動脈硬化を引き起こしたのではないかと言われている。



コメント

阪神に移籍一年目は22勝で最多勝利、2度目の沢村賞を獲得古巣、巨人に対しては8勝0敗の成績。世間は悲劇のヒーローから国民的ヒーローに押し上げた。往年の小林氏を知る記者たちは「とにかくシビれる男やった」と口を揃えるほど本当にカッコよかった。小林氏本人が「プロ野球選手は頑張れば一流になれる。超一流になるには運がいる」といっていたそうだが、そこまで判っていながら波乱万丈の人生を歩まなければならなかったのか不可解である。現役のときから料理店や高級クラブを経営していたが、所詮は道楽でしかなかったといわれる。自動車販売業や不動産賃貸にも手を出した小林氏の借金は、バブル崩壊とともに一気に膨れ上がったとのこと。いろいろな経緯と運勢の流れを照らし合わせてみて、あまりにもタイミングの悪い行動をとりすぎている。芸能界、ゴルフ界、音楽界においても何億と稼ぎながら落ち目なった人に共通することは、過信、おごりから、世間を甘くみてしまったことだ。小林氏もしかり野球の実力は一級品、容姿端麗、歌はうまい。人気がありもてはやされる、超高給取り、レコードを出せばヒットする。勘違いしてしまうのもやむをえないが、少しでも運というものに 関心をもっていたなら小林氏のいう超一流の人物になれていただろうと思うのである。ピッチャーマウンド上の雄姿を思い出しながら、ご冥福をお祈り申し上げます。





高木美帆さんを鑑定する


高木美帆「人生が変わっちゃいました」とびっくり表情で話すのはスピードスケートのバンクーバー五輪代表に選ばれた中学3年生の高木美帆さんだ。昨年末代表選考会で1500m優勝、1000m、3000mでは3位に入った。中学生で五輪代表に選ばれたのは史上初。ましてや選手の健康面への配慮ということで国際スケート連盟においては五輪出場の年齢資格がある、開催前年の6月30日までに満15歳であることが条件。それをクリアする強運の持ち主といえるのである。5歳から始めたスケートだけではない、小学校2年生から始めたサッカーでも日本代表の選抜合宿にも呼ばれる逸材である。もしメダルを手にすれば、冬季五輪では日本史上最年少になる。では運勢的に鑑定していきましょう。

 

高木美帆命式

日干五行(1番目)が強い比劫タイプです。これまでに何人もの比劫タイプをご照会してきたように、特質すべきは負けず嫌いの性格と言えるのです。



高木美帆大運
五行土が偏っているということは季節夏と季節の間が大運のランクが低くなります。まず、夏に巡っていない、それにランクが急上昇している、本当に巡り合わせと言おうか、運の不思議さを感じてしまう、何かやってくれそうな機運と言えるのである。

 




美帆さんの空亡は寅、卯であり、本来ならば今年は空亡年となりまが、暗示に冲が出ており、相殺し合ってグラフ通りの旺盛運となります。











高木美帆暦

 

期間:2010年2月12日~28日 17日間























コメント


滑る度に進化するといわれる高木美帆さん、性格も明るく、趣味は「ヒップホップダンスです」と答える。NHKの取材では夏場のサッカーがモチベーションを保てる要因になっているとのこと。中学生とかは勝負には関係ない、正々堂々と戦いたいと語っていた。まだ、あどけない初々しいさの中に大器の片鱗を垣間見ることができる。背負うものはなにもない、思い切り自分の可能性に挑戦してきてください。

矢沢永吉さんを鑑定する

皆さん、明けましておめでとうございます。
新年にあたり「フォーチュン」をご愛顧いただいている皆様方に厚く御礼申し上げる次第であります。
1月4日月曜日の仕事始めは、だらだらした正月休みと違って気持ちの切替にはいいものです。年の暮れにいつも思うのは来年は事故のない良い年になってほしい、少なくとも正月、三が日は無事故の日になればと願うが、必ずといっていいほど帰省ラッシュのニュースに続き火事、遭難、雪下ろし事故、交通事故などで亡くなられたというニュースが飛び込んでくる。2010年という真っ白なキャンパスにどんな出来事が描かれるのか、まぁ、いろんなことがあるんでしょうね。今年も注目される人物にスポットをあて運の不思議を紐解いてまいります。

矢沢永吉さて、今年のトップを飾る運勢鑑定は誰にしようかと考えていたところ、昨年から、やたら矢沢永吉さんの名前が耳に入ってくる。日本のロック界を代表するミュージシャン矢沢永吉さんのドキュメンタリーが映画化された話題や還暦を迎えたこと、60回NHK紅白歌合戦でサプライズ登場したことなど、とにかく知名度と人気はすごい、ロック界においてはカリスマ的存在とされている。小生はロックはやかましいという先入観で、あまり関心もなく詳しくもない。昨年、テレビで熱唱する矢沢永吉さんのライブ映像が放映されていた。歌の途中で感極まって歌えなくなった、ナレーションの解説では後に雑誌のインタービューで、そのときの心境を聞かれ「よくぞここまで矢沢永吉がこれたものだ」ともう一人の矢沢が感無量になったと答えていたそうだ、なかなか意味深い言葉だと思う。題名は忘れたがそのとき唄っていた歌は、最初に売り込みにいって断られた曲だったらしい。







矢沢命式矢沢さんの日干の五行は火、それから数えて2番目の五行が偏る食傷タイプになります。食傷タイプは集団で歩調を合わしていくのは苦手な気質で一匹狼的な生き方をする性格をもっているのです。極端な言い方をすれば同じ目的を目指しても、人は人、自分は自分のやり方で到達すれば良いと考える気質の持ち主と言えるのです。矢沢さんのイメージを知る人に説明したら、その通りだと思うと納得していた。


矢沢大運実母が家を出て、実父は原爆後遺症で早逝したため、幼少期は親戚中をたらい回しにされる。その後は祖母に育てられ、極貧の少年時代を過ごした。この頃、近所の裕福な家の子供に「お前の家は貧乏でケーキなんか買えないだろう」とケーキの一部を顔に投げつけられるなどの屈辱を受けた。このような経験が積み重なり「ビッグになる」との思いが芽生えたと語っている。中学時代、ラジオから流れるビートルズを聴いてロックミュージックに目覚め、更に広島でのザ・タイガースのコンサートに行ったことで、すっかり感化されスターになることを夢見るようになる。高校卒業と同時に、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を持って、広島から最終の夜行列車で上京する。しかし、横浜駅で途中下車、チャイナタウンなどで働きながらバンド活動を始める。蒲田、川崎、横浜、横須賀などのライブハウスやキャバレー、兵隊の集まるゴーゴークラブで歌う。その後、挑戦と挫折を繰り返し、27歳のときロサンゼルスレコーディングによる「I LOVE YOU, OK」でソロデビュー。そしてCMソング「時間よ止まれ」が大ヒットする。当時のファンは、いわゆる不良少年、無頼者の印象の人間が多く、一世風靡はしたものの世論の評価は厳しいものがあった。矢沢48歳、英国ロンドンで、エルヴィス・プレスリー没後20年を記念して行われたロックフェスティバルにアジア代表として選ばれ、ロッド・スチュワート、ジョン・ボン・ジョヴィ、ロバート・パーマー、チャカ・カーン等と競演。世界60ヶ国に放映されるが、ロッドから最初「矢沢? 知らないね」とコメントされる。しかしゲスト紹介とともに現れたYAZAWAのパフォーマンスを8万人の観衆は快く受け入れ、ロッド自身もエンディングでYAZAWAをステージ中央に呼ぶなどし、最後には楽屋裏で「君、うまいね。エルヴィスのナンバー最高だったよ。今度いっしょにツアーやろうぜ!」とまで言わしめた。この模様をNHKがドキュメント番組”Do You Know YAZAWA?”として制作、放送した。これが世間に認められる足がかりとなり、その後の飛躍的な活躍につながったといわれる。くしくも大運が52歳からハイレベルにあり機運が味方している、年とるってのは細胞が老けることであって魂が老けることじゃないという矢沢語録、カッコいいぞ。


コメント

団塊世代生れの矢沢さんは若い時にビートルズやローリング・ストーンズなどの楽曲の”洗礼”を受けていたという。音楽活動もいわゆるテレビ歌手としてのそれではなく歌番組への出演は極力控え、主にライブパフォーマンスに重点を置き、観衆と正面で向かい合い、そのステージ技量を見せ付けている。巻き舌でコブシを利かせた歌い方は、音楽性をクラシックロックとして、芸域を拡大し、新たな市場を開拓していったとのこと。それで謎がとけたことがある、私の友人にも歌のうまい者が何人かいる、一人飛びぬけてうまい奴がいる、日頃、聞きなれない曲を選曲する、胸にしみるようなよい歌だ、誰が歌っているのかと聞くと矢沢永吉という、こんな場面が幾度かあったことを記憶する。還暦を迎えてもますます光り輝き、精力的に活動する矢沢さんの生き方は多くの人に力を与え感動をもたらすことでしょう。

追伸
ブログに対しての感想メッセージをいただき感謝しております。大変励みになっています、これからもご意見をいただければ有難く存じます。