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ごくろうさま 落合博満監督


落合今年の日本シリーズは福岡ソフトバンクと中日ドラゴンズの対戦となった。毎試合息詰まる熱戦繰り広げ、最終七戦までもつれこんだ。ついに「オレ流」は力尽きた。記事によると試合後、ファンの前では涙をこらえていた監督も、ついにロッカールームで涙。「八年間ありがとうな。この場立っていられるのはみんなのおかげだ」と挨拶する、監督を囲み、選手、スタッフ全員が号泣したという。9月22日、首位ヤクルトとの天王山、直前に今季限りで落合監督の退任を発表された。その後の中日ドラゴンズはチーム一丸となった強さをみせた。監督を務めた八年間でリーグ優勝四回、日本一が一回と輝かしい成績を収めた。「名選手必ずしも名監督ならず」といわれるが。落合監督は名監督であることは誰もが認めるとこめであろう。






落合命式
比劫-印星タイプですね。
自分五行とその五行を生じる星が強い命式ですから、守りの要素は少なく挑戦していくタイプです。命式中にある空亡、冲などの意味は「命式の見方その4」を参照して下さい。




落合大運大運は高いですね。25歳でプロ入り。秋田県立秋田工業高等学校に進学。野球部に在籍していたが、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。その後、先輩による理不尽なしごきに耐えかねて野球部を退部。しかし投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していたという。そして、東洋大学に進学するものの、先輩がタバコを手にしたら素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もし、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。秋田に帰ってしまった。その後、ボウリングのプロを志すが、プロテスト受験の際にスピード違反で捕まって罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場に季節工として入社。同工場の社会人野球チーム「東芝府中」に加わった。ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現し、1978年(25歳)、アマチュア野球全日本代表に選出された。
ドラフトでロッテオリオンズに3位指名されて入団。アッパースイングだった落合のバッテイング・フォームの矯正に取り掛かった。ベテラン捕手・土肥健二の非常に柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに注目しそれを真似し、我流のフォーム改造を狙った。当初、キャンプに来ていた評論家も皆フォームを酷評し、特に前監督・金田正一は面と向かって落合の打撃を酷評した。後年落合は、この時の思いを「オレは社会人もやってプロ入りしたから何とも無かったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口に出した。また、このことが後に金田が会長を務めていた名球会への入会拒否の一因ともなった。1982年には史上最年少で三冠王に輝く、1985年、1986年、連続の三冠。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治、ランディ・バース、落合の3名のみで、通算3度獲得は落合のみ。 落合はプロ入り前からの熱心な長嶋ファンで1994年、巨人にFA移籍。入団会見では「長嶋さんを胴上げするために来ました」と答えた。長嶋茂雄監督率いるチームで2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番打者として貢献した。長嶋は落合について「フィールドに監督がもう一人いるようなもの」と語り、打撃はもちろん、投手への声掛けのタイミングや的確な指示内容などを高く評価していた。1996年、史上7人目の通算500号本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。シーズン終盤に差し掛かるまでは打点王を争っていたが、8月31日の中日戦で野口茂樹から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱。以降の試合は棒に振ったものの、同年の誕生日で43歳になるシーズンにも関わらず、打率.301、21本塁打、86打点という好成績を収めた。日本シリーズ第1戦から復帰。オフに清原和博が巨人へ入団したため、出場機会を求めて球団に自由契約を申し出る。1997年、ヤクルトスワローズの誘いを断り、2年契約を提示した上田利治監督率いる日本ハムファイターズに移籍。1998年、出場機会も減少。シーズン終了後、現役を引退した(任意引退ではなく自由契約での引退)。44歳になる年での規定打席到達は現在でも日本プロ野球史上最年長記録である。現役時代は生活の全てを野球に捧げていた。お腹を壊すと試合に出られないからと好物だった刺身をプロ入り後は一切食べなくなった、深夜に庭で素振りをする音で息子福嗣が目を覚ました、遠征先のホテルでチームメイトが部屋を訪ねると裸でバットを持ったまま出てきたなど、その練習に関するエピソードには事欠かない。ただし努力している姿をファンに見せないことを信条としており、猛練習する姿はほとんど映像に残っていない。ロッテ時代に受けたインタビューでも「努力は才能のない奴がすること」などと発言し、王貞治にたしなめられたことがあるという。「金のために野球をやっている」「多く給料を出してもらえるところへ行く」「金にならない試合には出ない」などの、これまでの日本人選手に多く見られた「浪花節」的考えと一線を引いた。FA宣言後も、巨人入団前から「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言。巨人入りには当時のファンからは賛否両論があったがプロとして最も(金銭面で)評価してくれるところへ行くのは当然」と強調している。落合は20代で離婚後、ホステスをしていた9歳年上の信子夫人と再婚。愛妻家(恐妻家?)として知られる。FA権の行使や監督就任などを決定させたことでも知られる。2人の間には長男・福嗣がいる。
監督としての落合は試合中は常に無表情で感情を表に出さず、選手交代を告げる時とマウンドに行く時以外はベンチ奥で腕組みし足を組んで座ったままほとんど動くことはなく、好プレーをした選手や本塁打を打った選手を迎えることもしなかった。これは、個々のプ レーに一喜一憂すると(感情が出ると)、選手が監督の顔色を窺うようになってプレーに影響するためという。



コメント

足跡をたどれば、やはり、すごい選手だったんだと関心させられる。監督としても優秀な成績を残している。運勢からみて決して上格の命式とは言えない。大運の運勢背景があったからこそ才能を開花できたと言えるでしょう。落合監督が発する言葉に基本的に愛想はない。偏屈で、人を喰った様な物言い方は誤解を招くこともあるだろう。これは守りの資質が少ない比劫-印星タイプの特徴と言えるものである。親父の影響もあってか小さい頃からホークスファンであった。今回の日本シリーズは戦力的にみて4勝2敗ぐらいでホークスが勝と思っていたが、毎試合、重ぐるしい展開なってしまう。何故と考えると、落合監督のブレない野球信念が、そうさせているように思えてしまう。落合では人気がとれないといった酷評があるというが、「監督は勝つことが仕事」と言い切るブレない姿勢に、それを超える大きな存在感を感じてしまう。また、いつかグランド復帰を待ち望む声がたかまってくるはず。それまで、じっくりエネルギーの充電にあててほしい。