毎年、誰かが逝ってしまう。それは自然の理であって特にブログにとりあげようとは思わない。
しかし、「巨人、大鵬、卵焼き」の流行語生んだ昭和のヒーローの死去は昭和時代に青春を生きた人にとっは、いつまでも色あせることなく記憶に残る人物である。
さっそくフォーチュン四柱推命運勢鑑定表を通して検証してみましょう 。
印星タイプですね。
昭和15年樺太で生まれた。(当時樺太は日本領だったため、外国出身横綱には数えない)
その直後に激化した太平洋戦争によってソ連軍が樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船で北海道へ引き揚げることとなった。
北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しかった。
中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、昭和31年に二所ノ関一行が訓子府へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門(16)した。
昭和34年、新十両昇進が決まると四股名を「大鵬」と付けてもらえることが決まった。
由来は古代中国の想像上の大鳥。「荘子」逍遥遊によれば、鯤(こん)という魚が化したもので、翼は三千里に達し、一飛びに9万里ものぼるという。
20歳6ヶ月で大関に昇進。
新入幕で初めて敗れた柏戸剛と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年(21)に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築いた。
1964年(24)、本態性高血圧によって幕内で初の途中休場。
1967年(27)、肘を負傷]し、そのケガの分を取り戻そうと稽古で無茶をしたことで左膝靭帯断裂の重傷を負い、1968年(28)3月場所から3場所連続で全休した。
復帰した同年9月場所では、初日に栃東知頼と対戦して敗れたことで周囲から限界と思われたが、慎重に勝ちを求めた結果、叩きを多用する相撲に変わった。横綱として内容は冴えないが、同場所2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日までの間に双葉山定次(69連勝)に次ぐ45連勝を記録した。同場所5日目から肺炎で途中休場となり、さらに肺炎の影響で肺機能が低下したことですぐ息が上がるようになってしまい、激しい稽古が出来なくなったという。
それでも1969年(27)5月場所には30回目の優勝を飾り、この功績を讃えて1969年9月場所初日には日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。
非主流派とみなされる二所ノ関所属の大鵬は、親方としての出世は遅いと見られていたが、1976年に35歳の若さで役員待遇・審判部副部長に就任した。ところが、1977年に(37)脳梗塞によって倒れ、その後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就任する見込みが無くなった。
コメント
歴代横綱で一番む強かったのは誰かと訊かれると、小生は大鵬だと答える。両親ともは熱狂的な相撲ファン、何故か一番強い者を応援せず、栃若時代なら栃錦、柏戸時代では柏戸を応援する家庭であった。応援する力士が負けたときの食事は会話がない、暗い雰囲気での夕食だった。それだけに大鵬の強さは小憎らしいくらいものであった。ある年のお正月のテレビで、野球界から王、長嶋、歌手では石原裕次郎、美空ひばり、角界から大鵬が出演して対談する番組があった。今から考えると夢のような集まりである。日本が高度成長期に向かう昭和30年半ばのことである。
大横綱のご冥福をお祈り申し上げます。