週刊文集のゴールデンウィーク特大号で「今だから話せる」というタイトルで1992年(平成4年)の貴乃花、りえ破局の記事があった。それから、間もなく、でき婚から3年、宮沢りえ離婚とニュースが報道された。昭和61年、フォーチュン四柱推命運勢鑑定表を世に発表してから5年目、いくつかの新聞や雑誌にとりあげてもらうようになった、そして、朝の『ビッグモーニング』というテレビ番組でもとりあげてもらえることになった。当社にとっては一大ニュースである。加盟店はじめ関係者に連絡をとり、その日をまった。ちょうどその頃、宮沢りえ(当時19歳)さんがヌード写真集をだすということで、世間はこの話題で持ちっきり。案の定、「フォーチュン」は紹介されたが、すぐに宮沢りえさんの写真集の話に移ったので、まず印象には残らない15秒であった。あとで聞けば特別な話題がなければ、もう少し時間をかけて紹介されていたという。そして・・・
生まれ時が判らないとなんとも言えませんが、三柱だけのバランスでは比劫タイプになっています。
大阪のMという商社では毎年、夏と冬に家族販売が催される。社内の数階を百貨店風にして、商う品を家族に安く販売するイベントである。M社の多くの方々が、フォーチュンを活用されていた関係で当社も参入できるようになり、実働は加盟にまかせていた。1992年上旬「フォーチュン」のサンプルを誰にするかを相談にこられた。何といっても貴乃花、宮沢りえの婚約発表直後なので、これをもってアピールとたいとのこと、小生の意見をききたいとのことであった。貴乃花と宮沢りえさんの鑑定表をもとに話をした。クリスマスを前に開催された開場に立ち寄ったら、大きな文字で「貴乃花、宮沢りえ、破局する」と垂れ幕あった。おもいきったタイトルにしたもんだと言ったら、鑑定内容と先生の話を聞いたら破局しかないと結論に至ったという。真剣に鑑定表に目をとおされている方もいたが、大抵は、そんなばかなと言う顔でニコニコして通り過ぎるお客も多くいた。そして、翌年、5月のイベントでは「貴乃花、宮沢りえの破局を12月に予測していたことを覚えておらますか」と同じ見本でアピールしたのでした。お客様も昨年のことを覚えていらっしゃる方が多く、申込みも例年の数十倍だったと報告を受けた。今になっては懐かしい思い出のひとつでもある。
名大関貴ノ花の息子として中学卒業後、兄とともに入門したことは、マスメディアを通じて国民に広く報じられ、入幕前から相撲ファンの枠を超えた注目を集めていた。1989年九州場所、17歳2ヶ月で新十両に昇進。1991年の夏場所(西前頭筆頭)では、わずか18歳9ヶ月ながら、当時の横綱千代の富士を破り引導を渡したことで、次代の第一人者候補としての評価を固めていく。兄若花田とともに活躍は「若貴フィーバー」と呼ばれ、平成初期の一大相撲ブームの担い手となり、その後も順調に成長していった。1994年(平成6年)11月場所後ついに横綱昇進(当時21歳)が決定。ライバル曙との名勝負、兄若乃花との兄弟での優勝決定戦、右膝半月板を損傷しながら土壇場で優勝するなど、優勝回数や記録だけでははかりえない横綱であったといえる。
正財星が3つでいます。財星ー印星タイプですね。
1996年(平成8年)9月場所後の巡業中、背筋の肉離れを起こすケガにより、貴乃花の相撲に陰りが見え始めた。(当時23歳)、このころに整体師による過食症洗脳騒動が世間の話題となる。1997年(平成9年)は過去の稽古の貯金もあって3度優勝して横綱の面目は十分に保てたが、1998年(平成10年)以降はその貯金も底を突いた状態となった。平成10年1月場所終盤、急性上気道炎による高熱と原因不明の湿疹で勝ち越しながらも途中休場。翌場所も序盤から崩れて、肝機能障害によりまたも途中休場に追い込まれた。7月場所と9月場所は連覇して優勝回数を20回の大台に乗せたが、その後は怪我や病気に苦しみ、休場、全休を繰り返し、2年以上優勝から遠ざかる事になった。そして2001(平成13年)5月場所、(当時30歳)、千秋楽優勝決定戦では、右膝半月板を損傷しながら大方の予想を覆し、武蔵丸を豪快な上手投げで破った。当時の首相であった小泉純一郎は表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と貴乃花を賞賛した。後世相撲史に語り継がれる大一番となった。しかし、その代償は大きく逆に大きな禍根を残す事になった。休場が1年近くになった頃から、貴乃花に対する風当たりは強くなり、横綱審議委員からも苦言を呈するようになった。2002年(平成14年)9月場所、横審委員会からの勧告も有って出場に踏み切る。12勝3敗の準優勝を果たした。他の幕内力士との実力の違いを見せつけたが、場所終盤には再び右膝の怪我の状態が悪化
したため、翌11月場所はまたも全休することとなる。そして、貴乃花自身最後の場所となった2003年(平成15年)、(当時32歳)、1月場所、右膝の状態が万全では無かったものの出場を決意。2日目、二丁投げを喰らって左肩を負傷してしまう。8日目の安美錦戦に敗れ、その翌8日目でついに現役引退を発表した。これ以降番付から日本で生まれ育った横綱が姿を消してしまった。
コメント
貴乃花の優勝パレードのオープンカーの横にはお兄ちゃんが付き添い、沿道のファンに手を振る、そして親方とおかみさんの出迎えにいやいや・しく応える。お兄ちゃんが主役のときも同じ光景があった。世間では横綱を2人も排出した花田家は日本を代表する理想の家庭に映っていたと思う。初めて貴乃花さんを鑑定して思ったことは大運が高くないこと、28歳から印星が旺盛になるためさらに低くなっている。印星で低くなる理由は自分自身で消化しにくくなるエネルギーが覆い被さってくる周期になる。つまり重い荷物を背負って走らなければならない時期となってくるのだ。角界で隆盛を誇った花田家がもろくも崩壊すると誰が予想できたでしょう。しきたりの厳しい相撲の世界に嫁ぐのにヌード写真集とはいかがなものかと揶揄する者もいた。運勢的にも反対者が現れてもおかしくかい運勢だった。1992年は貴乃花は空亡年にあたり運気の悪さは逆に緩和されるが行運暗示に冲(月)がでていた。宮沢りえさんも運気が悪い、そして五行水も多く貴乃花にとっては相性も良くなかった。2人とも19歳と若く、純粋に突き進んだのであろうが、タイミングが悪すぎた。親のエゴ、大人たちのプライドで気運通りに流されてしまったと言える。洗脳騒動、母親の浮気、両親の離婚、二子山親方死去、葬儀をめぐり兄弟の確執再燃、相続問題と「日本一幸せな家族」の崩壊をマスコミは連日報じた。宮沢りえさんも自殺未遂、激やせ、恋多き女性と報じられ、2009年2月に結婚と妊娠6ヶ月を発表、女の子を授かり精神的に落ち着いて頑張っているかと思っていた。なるほど2008年は偏官年で男性縁があるときだ。2012年の比劫年は1992年の比劫年とは違うようで自ら結論を出したように推測できる。時の流れははかないものだ、美しかった記憶を枯れさせてしまう。個人的に言えば二子山親方は広報のためとはいえ、「吉本新喜劇」でズッコケている場合ではない。歴史に残る大横綱として、相撲の文化の伝承者として威厳をもって生きてほしいと願っている。